『名前を』



長政との間に亀裂が生じてからこの方、側にいる事が減った。
当たり前の事だが、何故か異様に違和感を覚えた。
主が己の名を呼ばなくなったのを哀しいと思った。
それはおかしな気持ちだと思う。
笑い飛ばしたくなった。
それなのに、それを寂しいことだと感じている。

***

「母里」

呼ばれたのは母里殿なのに、何故か立ち上がりかけた。
長政が変な顔でこちらを見ている。

”お前になど用はない”

そういう意味合いの込められた視線。
顔色をかえるでもなく、目を伏せれば見えなくなる。

「このたびの戦功、さすがだったな。
お前の働きには何時も期待している」

長政の上機嫌な声を聞きながら、畳を見つめる。
フッと幼い頃の長政の声が頭の中に響いた。

”又兵衛はすごいね。格好いいね”

尊敬の眼差しと半ば敬愛の情がこもった言葉。
幼子のたった一言なのに、何故かそれが嬉しくて堪らなかった。

「…たべぇ…又兵衛ぇ!!聞いているのかッ」

それをかき消すような声にハッと我に返る。
見上げれば長政が呆れ顔で俺を見ていた。

「お前は人の話を聞いているのか?聞いていないのか?」
「…済まない」
「済まない?それは聞いていないと取って良いのか?
いや、お前の事だ。どうせ策でも巡らしていたのだろう?
頭の良い奴は違う…なぁ?」

皮肉の込められた言葉に言葉を返す必要はない。
何時から言葉を返さなくなったのだろう?
こうやっていけば、益々溝は開くばかりなのに。

「もう良い。下がれ、又兵衛!母里に聞く」

”母里”、”母里”…俺の名より多いその名が疎ましい。
母里殿は決して嫌いじゃない。
むしろ、友好的に接している方だ。
なのに、この名が語られるのが嫌なのは、何故なのか?

”又兵衛”

そう呼ぶ方が昔は多かったのに。
そんな風に思う自分も疎ましかった。

「失礼します」

俺は大人しく下がり、部屋を後にした。
長政が小さく舌打ちをした気がした。

***

「何をさっきは考えていた?」

振り返ると長政が立っていた。
夜に差し掛かる縁側に座っていた俺は長政から目を反らす。

「別に」

お前の事だとは言いたくはなかった。
それはただの意地だろうか?

「別にとは随分な言いようではないかッ!」

長政が怒鳴る。 早々に立ち去る方が良い。
そう頭では分かっていた。
分かっていたのに…。

「俺を…呼んでくれ」

そんな言葉を吐いていた。

「は?」

長政が半ば訳の分からないという声を出す。

「俺の名をお前の声で呼んでくれ」
「何故?」
「理由は……」

理由なんて俺が聞きたかった。
なんで、そんな事を言ったのか、…俺が知りたい。

「フン、お前の名など呼んでも不愉快なだけだ」

長政は半ば嘲笑するように言い、腕組みをした。

「悪い…、忘れろ」

急に恥ずかしくなり、立ち上がった。

「は?」

長政の手が俺の袖を捕らえる。

「なんの理由も言わず、逃げるのか?」
「……」

その通りだ。
なんの理由も言わないで、逃げようとしている。
だが、逃げなければ逃れられない気持ちなのだろう。
だから、逃げてしまう。

「何故、俺に名を呼んで欲しい?」

長政の声に少しだけ感情がこもる。
それは怒りとかじゃなく、何処か縋るような…。

「…分からない」

そうとしか、言えなかった。

「母里殿を呼ぶお前が、何故か嫌だ。腹立たしいくらい、嫌だ」
「え?」
「許せ、長政」

そういうと長政の唇を奪っていた。
ソッと一回啄むように触れて、離す。
僅かな温もりと柔らかさが唇に残る。

「…許してくれ、吉兵衛」
「ま、又兵衛…っ」

何に対しての謝罪だろうか?
何故許しを乞うのか?
分からない。
ただ、今強く想うのは…。

***

「後藤殿、出奔なされました」

お前の側にいてはいけないという事。
所詮、逃げて生きるしか道がない。
お前を泣かせたとしても、
俺はお前に近付くのを拒む事しかできない。
呼んで欲しかったことや、寂しかったのはなぜだか今でも分からない。
分かる時が来るのだと信じていたい。

「吉兵衛…、済まない」

こんな気持ちを持つ、俺は最低だと笑い飛ばした。



*前のHPから持ってきました。
今回も、小説を読んでいて思い付いたお話です。
又兵衛と話したくなくて、母里君をわざわざ出してきたり、
褒める時は又兵衛じゃなく、わざと母里君を褒めたりする長政を見て、
こんなんされたらさすがの又兵衛も少しくらい苛立つかな?って
思って書きました。
本当は、長政が又兵衛を嫉妬させようとするお話でも良かったのですが。
けど、それだとあまり毎回書いているのと変わらないので
又兵衛に嫉妬して頂きました。
でも、読み返すと「誰?」って思ったり(汗)
基本的にうちの又兵衛は長政をスルーして生きてますので、
こんな風にうろたえてしまうことはないなぁと思った今日この頃でした。

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