そうか、この弟にもこのような顔をすることがあるのか。
晴信は信繁を見上げて、そう思う。
冷静沈着を描いたような弟が、今は真っ青だ。
「御屋形様、聞いておりますかッ!!」
「あぁ、聞いている。なんだ、次郎?」
「なんだじゃないですよ!
さっきから呼んでいるのに、ちっとも反応して下さらないからッ」
「そうか?‥そんなに呼んでいたか?」
「えぇ!四回も」
「それは悪かった」
笑って言えば、ハァッと盛大なため息をつかれる。
それでも、その表情はいつもより何処か硬く、
今にも泣き出しそうなほど不安の色を纏っている。
「次郎」
「なんです?」
「お前もそのような顔をするのだな‥と思っていたのだ」
「え?」
晴信は右手を伸ばすと弟の頬に触れた。
「そんなに儂が怪我をしたと聞いたのがびっくりしたのか?」
笑って尋ねれば、
「当たり前ですッ!!何を言ってらっしゃるのですかッ!!」
と怒鳴られる。
「御屋形様はご自分がどれだけ重要な位置におられるか、
分かっておいでではないのですねッ!」
「そこまで言うか‥」
「当然です。勝手に遠出に出かけられた上、馬から落ちたなどッ!!」
そこまで言って、信繁が泣きそうな顔で俯いた。
「‥次郎?」
「‥‥」
晴信は僅かに震える肩に彼の心配がどれほどのものか知って、
思わず困ったように笑った。
「次郎、‥心配してくれたのだな?」
「当たり前です‥。私は御屋形様の部下ですよ」
「またそのようなことを。‥弟としても、心配したのだろ?」
そう口にすれば、信繁の顔がゆっくりと上がり、
頬に触れる手に己の手を重ねた。
「兄上が‥、兄上が大怪我をしたのではと‥
こちらはどれだけ胸がつぶれるような思いをしたことか」
僅かに涙声が混じった声で呟く。
「すまない。‥心配させた」
「お怪我がないと聞いたとき、とても安堵しました‥」
「悪かった。‥すまなかった、次郎」
言葉を紡ぐほどに、ポロポロと涙を零し始める弟に
晴信は笑うのをやめて、その身体を抱きしめた。
「もう良い。‥儂はちゃんとここにいる」
だから、‥そのように真っ青な顔をするな。
「兄上がッ!太郎兄上がいけないのですよっ!
あれほど、雨の後だから今日は外出しないで欲しいと言ったのに」
「分かった、‥分かった。儂が悪かった」
「もし、ご無事ですまなかったらどうするのですかッ!」
兄上は兄上だけの身体ではないのですよ!といつものように小言を言う
信繁の声が今日は涙声のせいか、幼く聞こえる。
「あぁ‥分かっている。全てはこの兄が悪かった」
お前を心配させて、泣かせるつもりなどなかったと
晴信は何度も謝罪を耳元に優しく囁いてやる。
そのうち信繁の小言が嗚咽に変わっていく。
幼い子の様に泣きじゃくり始めた信繁に、
晴信は髪をなでてやりながら
次郎は冷静で動じない男だと勝手に決め付けていたが‥
と思う。
「不謹慎だが、‥そんなお前を泣かせることをできるのが儂とは」
嬉しく思う‥と呟いた言葉に信繁が
「何を言ってらっしゃるのですか‥」
と少し怒ったように返す。
晴信はそれに苦笑すると
涙を頬にくっつけたまま、睨む信繁に
「儂のために泣く次郎は、‥愛らしいと思ってな」
と額に口付けて
「まだ不安なようだな?
儂がちゃんと生きている事を教えてやろう」
と冗談っぽく口にする。
何を?とキョトンッとする弟をゆっくり押し倒しながら
「本音を言うと、泣いているお前を見て
愛でたくなっただけだがな」
と口にし、首筋に唇を寄せた。
最初のうちは、小さく抵抗を示した信繁だったが
そのうち晴信の存在を確かめるように口付けを返してきた。
信繁の手が縋るように晴信の着物を握った。
「あにうえ‥っ」
と甘くとろけても、何処か泣いているような声の弟に
「心配するな。‥ここにいる」
と返しながら、
己のことに涙してくれる弟に
晴信は”愛しい”と思わずにはいられなかった。
終
*久しぶりに武田の兄弟です。
信繁はお兄ちゃん子で、
晴信は兄バカならいいと常に思っています。
信繁さんは普段冷静沈着なのに、兄のことでワタワタすればいいです。
お兄ちゃんのことになると少しだけ子供っぽい信繁さんとか可愛いよ!と
思い、こんな話になりました。
けど、実は信廉のことも同じくらい案じていたらなぁと思うので、
それを知った時の晴信さんの反応とか書いてみたいものです(笑)
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